SPECIAL TALK

Drive to Milan ミラノへの車中にて

葵フーバー × 佐藤達郎[DELFONICS]

スウェーデンから、イタリアのミラノへ。ミラノから、スイスのキアッソへ。さまざまに移りゆく葵フーバーさんのストーリーを、DELFONICS代表、佐藤達郎がインタビュー。キアッソのとあるレストランに向かう車中、運転席には佐藤、その隣に葵さん。「運転と言えばね」と、少しなつかしそうに、スウェーデンからマックス・フーバーの事務所があるミラノに向かった話を、葵さんが切り出しました。

スウェーデンから、ミラノへ

1960年、父である河野鷹思さん、そしてその父と交流のあったスウェーデンを代表する陶芸絵付け作家/デザイナー、スティグ・リンドベリの後押しを受け、葵フーバーさんはスウェーデンのストックホルム国立工芸職業学校に留学。レタリングやデザインを学び、のちに夫となるマックス・フーバーの事務所へ。さまざまな偶然、そして時代の必然に導かれるように作家として活躍していく葵さんのストーリーが、お気に入りの赤い車、ルノー ドーフィンを舞台に始まります。

Aoi

スウェーデンで、ルノー ドーフィンを買ったんです。広告がかわいくてね。それで決めたんだけど、その車に乗って、ミラノに引っ越してきたの。

Sato

車でミラノまで?

Aoi

スウェーデンに父が来たときに、買ってもらったドーフィンという赤い車。主人が一人じゃ危ないからって、迎えに来てくれて。そのドーフィンに、所帯道具を全部積んでね。

Sato

ご主人のマックス・フーバーさんとは、ご結婚する前のお話ですよね?

Aoi

そう、ミラノにある彼のスタジオに雇われたけれど、一人でスウェーデンから引っ越すのはちょっと大変。誰も手伝ってくれる人がいないと相談したら、「スウェーデンに行ったことがないし、僕が迎えに行くよ」という電報がデザイナーのお友達の家に届いて。
その後すぐに、彼が飛行機で来てしまったんです。

Sato

葵さんがおいくつくらいのときですか?

Aoi

25~26歳のころかな。そうしたら主人は運転をしない人だったの。
だから、道を見る係として日本語で右と左を覚えてもらって。

Sato

はははは。

Aoi

私は学生のとき、すごく運がよくて。
岩波写真文庫でアルバイトをしていたんだけど、夏もずっとそこでアルバイトをして、そのお金で免許を取ったんです。女性が免許を取るような時代ではありませんでしたが、偶然に。どうしてそうなったかは記憶にないのだけど。

Sato

何日くらいの旅になったのですか?

Aoi

主人があの人に会うとか、この人の家に泊まるとかで、4~5日転々としながら、ミラノに到着したと思います。
スウェーデンのストックホルムから車ごと船に乗って、デンマークのコペンハーゲンへ。
当時のスウェーデンは右側通行(注:1967年に左側通行に変更)で、デンマークに入ったら左側。デンマークからは、ドイツ、フランス、スイスを通ってイタリアに。ミラノのスタジオにいた若い人が、なかなか帰ってこないって心配していたわ(笑)。

Sato

ご本人が迎えに来てくれるなんて、すごいですね。
葵さんはイタリア語で話されたんですか?

Aoi

いえ、英語もイタリア語も上手じゃなくて。主人の英語と、私の英語はちょうどよかった。
学校を辞めて引っ越すことは、うちの父にはだまっていたの。ほら、父はスウェーデンが気に入っていたから怒られると思って。
でも、(スティグ・)リンドベリさんが「雇ってもらえるところがあるなら、行った方がいい」とおっしゃったの。スウェーデンで外国人が就職するのは、なかなか難しいからって。

Sato

リンドベリさんに?

Aoi

ええ。リンドベリさんは、ほがらかな方で。スペイン人じゃないかと思うくらいおしゃべりで、それに、ピアノが上手だった。
家にあるボロピアノでジャズを弾いてくださったりして。

Sato

彼のグスタフスベリの工場には行かれたんですか?

Aoi

もちろん。リンドベリさんは工場のすぐそばに住んでいたの。そこで、リサ・ラーソンに会ったり。

Sato

すごいメンバーですね。しかも60年代に!

スイスとイタリアのデザイン

マックス・フーバーの事務所での初期の仕事は、イタリア最大の老舗高級デパート、ラ・リナシェンテの新聞広告。イラストレーションを葵さんが担当しマックス・フーバーがレイアウトを手掛けるというように、二人三脚での仕事が始まりました。

Sato

マックス・フーバーの事務所に雇われたきっかけは?

Aoi

彼は、1960年に開催された世界デザイン会議に招待されて、初めて日本に来て、父や妹と知り合った。私はスウェーデンにいたので、次の年に父がミラノにAGI(注:国際グラフィック連盟)の会議で来たときにイタリアで紹介されたの。マックスという人と日本で知り合ったからって。
親友のワーナー・ビショフさん(注:スイスの写真家。1949年にマグナム・フォトへ参加)が日本に住んでいたことがあったので、彼ももともと少し、日本のことを知っていました。お箸でごはんも食べられるくらい。

Sato

ミラノに来てからはどのような生活だったのですか?

Aoi

彼とは別々に住んでいて、スタジオまで市電で通っていました。変な話なのだけど、ちょうど働きはじめたときに、ラ・リナシェンテ百貨店で「CORRIERE DELLA SERA」(注:1876年創刊のイタリアで最も古い全国新聞)の仕事があったの。
下着の仕事だったので、うちの主人、そんなものはできっこなくて、私がちょうどいいということで、イラストレーションを。ニコルソンというきれいなモデルの写真とともに、主人がレイアウトして。
「Fiera del Bianco」という下着や敷布の白物をテーマにした広告もあった。その後は「besana」という今は無くなってしまったパネットーネ (注:イタリアの伝統的なお菓子)の会社の仕事をずっとやっていました。

Sato

スタジオには、何人くらいのデザイナーがいたのですか?

Aoi

2人しかいなくて、そのうちの1人はハインツ・ワイブルというデザイナーだった。

Sato

彼は作品集も出していますね?
たしかにマックス・フーバーの影響を感じます。

Aoi

そう? 彼はドイツ語ができたから、打ち合わせのときにマックスについていってました。マックスは背が小さかったけれど、ハインツさんは身長が2mほどで105kg。それで、赤いポルシェに乗っていたのを覚えています。マックスはずっと市電だったんだけどね(笑)。
そんなストーリーは、たくさんあるの。
佐藤さんがマックスのデザインを知ったきっかけは?

Sato

マックス・フーバーのポスターをパリで見つけて買ったんです。
広告年鑑などで見かけたことはあったけれど実物を目にしたのは初めてで、モンツァのオートレースのポスターでした。
これは面白いなぁ!と、衝撃的でしたね。
制作されて何十年も経つのに、鮮やかな色使い、様式にとらわれない躍動感あるレイアウトがとっても先進的で改めて魅了されました。
マックス・フーバーやイタリアのことを強く意識するようになるきっかけです。

Aoi

(ブルーノ・)ムナーリさんの言葉で、「マックス・フーバーというスイスの人が“四角”(注:構成主義のことを揶揄したものと思われる)をしょってやってきた」というものがあって。
イタリアは、そういうのはあまり好きじゃないわけ。スイス、ドイツのバックグラウンドが、とりあえず彼のスタイルね。チューリッヒの工芸学校(注:チューリッヒ美術工芸学校)を出たから。

Sato

(ヨゼフ・ミューラー=)ブロックマン(注:スイスを代表するグラフィックデザイナー)も同じですね。

Aoi

そうそう。うちの主人も、運がよかったんです。彼のスタイルとイタリアの新しい風が良い形で組み合わさったのだと思うんですよね。ほんと不思議よね。

「キアッソ」という街

ミラノに移住した葵さんは、その後マックス・フーバーと結婚。国籍の都合上、スイスに6か月以上住むことが必要に。その場所として選んだのが、スタジオのあるミラノから一番近い国境沿いの街、キアッソでした。キアッソには、マックス・フーバーが亡くなったのちの2005年、美術館「m.a.x. museo」が建てられました。

Sato

もともとは、お父さんがきっかけでご主人と知り合ったとのことですが、すぐに恋愛に?

Aoi

そんな大げさなものじゃなくて。年が17歳も違ったわけ。面白い人だと思ったの。父とマックスはすぐに仲良くなって、ほら2人とも呑み助だから。うちの母が、彼と結婚することになってがっかりして。
また、仕事とお酒の人ですかって(笑)。
1年くらい働いた後なんだけれど、彼がスイス人だから、国籍の関係上スイスに住まないと結婚できなかった。

Sato

スイスに拠点を移されたのですか?

Aoi

そう、仕方がないから、イタリアのミラノのスタジオに一番近い、国境沿いのキアッソという街に決めたの。

Sato

そこからミラノに通ったのですか?

Aoi

電車でミラノまで40分。主人は毎日通っていました。

Sato

葵さんは?

Aoi

彼は朝7時の汽車だったから、後から車でゆっくりと。

Sato

ゆっくりと(笑)

Aoi

だって、荷物があったでしょう?
当時、キアッソからミラノへの道はまだすいていて。キアッソのことは、一番知っているの私。
こんなお店があったとか、ね。

Sato

僕と葵さんが初めて出会ったのも、キアッソでしたね。南スイスのこの地から葵さんのあの作品群の多くが生み出されたんだなあと、あのとき思いに耽りました。
そこからがまさにkiassoの始まりです。